ブログ    ”NORA DONNA”

ムラサキクモマグサ

これは、北極圏を代表する花です

マキバチョウノスケソウ

この花も、北極圏を代表する植物です。



水の惑星:地球

 

 

                          地球という星

 

 

 私たちは、何気なく朝、目を醒まし、食事をし、職場へあるいは学校へ出かけ、家事にいそしみ、一日を終わる。全く、ごくごく当たり前の暮らしを営んでいる。外を見れば、そこには木や草が生えており、鳥や虫が飛んでいる。ある時はネズミやモグラが姿を見せることもある。郊外の山へ行けば、そこにはうっそうたる森があり、針葉樹や広葉樹さまざまな木が生えている。そこには狸や猿や鹿なども住んでいるだろう。谷あいには川が流れ、ところによっては水が溜まって池や湖もできている。そんな水はやがて海に集まる。海岸へ行けば、青い海が果てしなく広がっており、寄せ波、引き波、水は大きく動いている。私たちをとりまくこうした自然、そして日常生活。私たちは何の不思議もなく、しごく当たり前のこととして、そんな世界で暮らしている。

 

 

 ところが、宇宙の視点から見れば、私たちを含む多くの生き物がここにいることは、本当に起こり得ないと言っても良いほどの、かぎりない偶然の奇蹟の結果と言ってもよく、一千億円の宝くじに当るよりもはるかに低い確率の、あり得ないほどきわめて稀有な偶然の出来事なのである。その奇蹟を起こしている要因は、実は地球という惑星の位置である。

 

 

太陽系には水星から始まって冥王星を含む九つの惑星がある。それぞれ、太陽とのある一定の距離を保ちながら恒星太陽の周りを回っている。地球は太陽の内側から三番目の惑星、太陽との平均距離は約一億四千九百六十万キロメートル。この距離の絶妙な偶然が、地球に多種多様な生物の繁栄をもたらしたと言ってよい。その決定的な理由は、地球における液体の水の存在である。

 

 

 水(H2O)は、この宇宙どこにでも存在する最もありふれた存在である。ところが、ほとんどの天体では、水は気体の水蒸気か、固体の氷の形で存在する。燃えたぎる恒星ではもちろんのこと、その近くにある惑星でも、表面温度が高すぎて水は液体の形をとれず水蒸気として存在し、いっぽう恒星から離れた位置にある惑星では、逆に表面温度が低すぎて水は、固体の氷として存在する。宇宙に存在するほとんどの天体では、水はこのどちらかの状態である。 

 

 

ところが地球だけは、太陽からの距離からして暑からず寒からず、水が液体の形で存在できる、まさに偶然の奇跡ともいうべき位置にあって、そこには液体の水が豊富に存在している。地球はまさに水の惑星なのである。地球がほんのちょっとでも太陽に近かったら、あるいは遠かったら、液体の水は存在せず、その結果として私たちも存在しなかっただろう。

 

 

 

 水は、きわめて効率のよい溶媒である。太古の地球では、水の中ではさまざまな原子や分子がランダムにくっついたり離れたりしながら、単純な物質が次第に複雑な化合物へと進化し、やがて有機化合物と呼んでもよいさまざまな物質が現れたのだろう。そのとき、物質進化の主たるエネルギー源として働いたものは、海底火山周辺の熱水鉱床の熱であったのだろう。そのほか、太陽エネルギーも使われたものと思われる。

 

  

 水は、きわめて効率のよい溶媒である。太古の地球では、水の中ではさまざまな原子や分子がランダムにくっついたり離れたりしながら、単純な物質が次第に複雑な化合物へと進化し、やがて有機化合物と呼んでもよいさまざまな物質が現れたのだろう。そのとき、物質進化の主たるエネルギー源として働いたものは、海底火山周辺の熱水鉱床の熱であったのだろう。そのほか、太陽エネルギーも使われたものと思われる。

 

 

 宇宙の本質的な性質として、物質は単純なものから複雑なものへと進化し、さらに次第に組織化していく。素粒子がつながり合って原子を作り、原子は原子どうしで手を取り合って分子を、分子も次々と手をつないで次第に複雑な化合物を作り出していく。世界は、単純から複雑へ、そして複雑化しながらやがて組織を作っていく。すなわち、物質は進化し複雑化し、さらには組織化、システム化する。それとともに、それぞれの物質は特有の機能を示すようになる。 

 

 

有機物質を作っている基本的な元素は水素、酸素、炭素、窒素であるが、水素は一本、酸素は二本、窒素は三本、炭素は四本の腕を持っている。この四種類の元素は、お互い非常に〝仲がよく〟、出会うとお互いに直ぐに手をつなぎあって群れを作る。またつないだ手を放しては別の相手とまた手をつなぐ。こうして無限といってもよいほど、さまざまなつながり方をして多種多様な有機物質を作っていく。

 

 

 今から四〇億年以上も前、原始地球では表面を被う液体の水の中で現れたさまざまな有機化合物の中でも、とくにいま私たちがヌクレオチドと呼んでいるような有機化合物が現れ、お互いにつながり合って、長い鎖のような物質が現れたことが、生命出現への端緒と言ってよいだろう。さらにそんな長い鎖が平行に向かい合って、その間に橋のようなつながりができ、さらに鎖がねじれて、やがて長い長いらせん階段状の物質が出来上がった。いま私たちが核酸と呼んでいる物質である。核酸の中でもとくにDNAを構成する鎖の輪に相当する単位の物質ヌクレオチドは、実に数十億個とつながり、数十億段のらせん階段を作っている。とは言え、その全体の長さは一ミリメートルにも達しないほど微小なものである。 

 

 

DNAが現れたことで、地球には避けようもなく生物が出現することとなった。らせん階段状のDNAは、あるとき階段の部分から二つに裂け、それぞれ片方を鋳型としてまた同じものを作り、それがまた分裂して同じものを作る。こうして核酸には倍々ゲームで無限に増えていく性質がある。この自己複製性、自己増殖性、これこそが生物の本質である。

 

 

 DNAが現れたことで、地球には避けようもなく生物が出現することとなった。らせん階段状のDNAは、あるとき階段の部分から二つに裂け、それぞれ片方を鋳型としてまた同じものを作り、それがまた分裂して同じものを作る。こうして核酸には倍々ゲームで無限に増えていく性質がある。この自己複製性、自己増殖性、これこそが生物の本質である。

 

やがて地球史のあるとき、DNAのまわりには、さまざまな有機物質がくっついて、ひとまとまりの微小な塊ができたことが、地球上最初の生物あるいは細胞の原型であろう。肉眼ではもちろん見えない微小なこの塊が、DNAの分裂とともに分裂し、それぞれがまた有機物をくっつけて元のような塊に戻る。こうしてDNAを含むこの有機物の塊は分裂しながらも倍々ゲームで無限に増えていったのではないだろうか。こうした化学反応は水の中で、まさに水を溶媒として進んでいった。

 

地球にDNAなる物質が現れておそらく四十億年以上は経っているが、DNAを包み込む初期の原始細胞は、周りにあった有機物質を細胞内にとりこんで、それを材料として細胞の部分を作っていった。また不要になった物質は細胞の外に放棄して細胞の平衡を維持していった。

 

 細胞は、ひとひとつ単独で生命としての機能と特性を持ちながらも、くっつきあっては群体を作り、細胞の集まりとして原始海洋の中で生きていたのであろう。そのうち集まりあった細胞の群体の間に、ある種の分業ともいうべき機能の違いが生じたとき、単細胞の生物は多細胞生物へと進化したのであろう。


 

だがDNAの情報は正確に複製されながらも、ときおりランダムな間違いが起きる。すると情報の記憶にも僅かな違いが生じ、これにより生物には変異が生じるのである。親から生まれた子供は、親と似てはいるが全く同じではない。この僅かなズレはランダムな変異であるが、この変異に対して環境圧が働いて変異を選択するのである。その結果、生物は進化と分化をすることになった。こうしてDNAはランダムな分裂と変異を繰り返しながら、三十八億年に及ぶ悠久の進化の歴史の中で、地球上には実にさまざまな違いをもった生物が現れた。地球上には現在、八百万種を超える生物が生きているといわれている。 

 

 

このように、地球が多様な生物を宿す天体になった最大の理由は、地球に液体の水が存在したことである。もちろん今も地球は液体の水にあふれている。あまりにもありふれた存在であるため、私たちは液体の水が存在する意味を気づかない。気づいても意識しない。 

 

 

私たちの体を考えてみよう。人間の体も約七〇%は水で出来ている。端的に言えば、人は人型の袋にいっぱいの水を詰め、そこにさまざまな有機化合物を入れたものと考えてもよいだろう。入れられた有機物が勝手に動きまわって、くっついたり離れたり、そこでさまざまな化学反応が発生し、それが人間の生理現象として現れ、その総合の上で人間は生きている、あるいは生かされていると言ってよいだろう。 

 

 

だからこそ、私たちは常に大量の水分を摂取している。水を飲み、物を食べる。食べ物の中にも大量の液体の水が含まれていて、それを私たちは取り入れているのである。当然のことながら、液体の水無しに私たちは生きていけない。

 

 

私たち人間の体は約三七兆個の細胞から出来ていると言われる。この三七兆個の細胞は、それぞれが独立して生きており、人体の中で決まった役割を果たしている。私たちは一人の人間として、ものを考え判断し行動している。朝起きて朝食を取り、自宅を出て乗り物に乗り、職場あるいは学校へ行く。仕事であれ勉強であれ、一日のなすべきことをなして帰宅する。夕食を取り、休養をし、一日を済ませて就寝する。すべて自分の判断に基づいて行動していると思っている。ところが、私たちの体で、本当に生きて活動しているのは細胞である。人体を構成する三七兆個の細胞が、それぞれ決められた場所で決められた役割を果たしていることで、体全体の機能が保たれ、一人の人間として生きているのである。 

 

 

このように体を構成する三七兆個とも言われる細胞の一つ一つが生きている本体なのである。皮膚を作る細胞は扁平な形となって体を保護し、血液細胞は全身をめぐって体中の細胞に酸素を送りまた廃棄物としての二酸化炭素や老廃物を収集し、神経細胞は繊維状に長く伸びて情報を瞬時に伝達し、筋肉の細胞は神経からの指令に基づいて収縮し、さまざまな動作を行っている。消化菅を構成する細胞は酵素を分泌して食物を分解し吸収する。血管、各種内臓を作っている細胞であれ、その一つ一つが生きている本体であり、それらおびただしい数の細胞の調和のとれた連携作業の結果として私たちは一人の人間として生きている。個人としての自分はその壮大な働きの総表現にすぎないのである。 

 

 

したがって、自分が一人の人間として考え判断したとしても、それは無量無限の細胞の活動の総和であり、システムとしての自分の表現にすぎないのである。そしてその膨大な量の細胞を支えているのが液体の水である。 

 

 

生物の歴史という視点から見ると、かつて海の中で発生した生命(細胞)は今も常に水に包まれていることでのみ存在できる。したがって私たちの体も、いわば水に満たされた器の中に三七兆個の細胞が浮遊して、それぞれ決まった働きをしているものと言ってよいだろう。その総和としての表象が自分であり、自分の判断と行動として現れているのである。 

 

 

いまひとつ、生物の基本的な性質として自己増殖という働きがある。それは基本的にはDNAの引き起こす機能である。DNAが二つに分かれ、半分になったDNAは、それぞれが小さな細胞に収納されながら繫殖子として、半分になった相手を求め合体してもとに戻ろうとする。それが生物の生殖の原型と言ってよい。

 

生物にはすべて、基本的に雄と雌がある。もともと生物は自己増殖を続けていたが、それでは遺伝子の変異の幅が限られ、多様な環境や環境変動への適応に、やや弱い所があった。そのうち、他の個体との遺伝子を交換し合うことで遺伝的多様性が得られ、多様な環境への適応度が高くなったでのあろう。そのうちに、機能的に多くの繁殖子を作って自分の遺伝子を広く提供する個体と、いっぽうで繫殖子を少なくしながらも繫殖子の細胞に遺伝子だけでなく栄養を蓄え、合体したDNAが順調に育つような工夫を具えた繫殖子を提供しようとする個体も現れ、こうして雄と雌の性分化が始まった。雄の繁殖子を精子、雌の繁殖子を卵と呼び、このふたつが合体することで新しい個体が作られ、生物としてこの世界にデビューすることになる。 

 

私たちが異性を恋し愛するのも、DNAが自己を複製し増殖しようという働きの表われと言ってよいだろう。お互いにお互いを求め、遺伝子を提供し合って子を残し、その子を大切に育てる。子を愛し育てることも、言ってみればDNAが倍々ゲームで増えようとする、その働きの表われと言ってよい。私たち人間を含むすべての生物は、基本的にDNAに支配され操作されて生きているのである。こうした働きもすべて、液体の水を媒体として、液体の水が存在できる環境の下でだからこそ行われているのである。 

 

 

 だがこうしておびただしい種類の生物が地球上に存在すること。そのこと自体が宇宙から見れば、起こりえない偶然の結果と言ってよい。先述したように、燃えたぎる恒星太陽からの絶妙な距離が地球に液体の水の存在を可能にし、その水を媒体として複雑な物質の進化が起こり、その結果として自分自身を含む多種多様な生物に地球は〝覆われた〟のである。太陽からの、その絶妙な距離を「ハビタブル・ゾーン」と呼んで、生命が存在できる域としている。もし地球がもう少し太陽に近かったら、あるいは遠かったら、液体の水は存在できず、したがって生命は発生しなかったであろうし、当然今の自分はここにいなかっただろう。 

 

 

 こうしてみると、地球は宇宙の中でもきわめて特殊な天体であり、稀有な存在と言わざるをえないのである。そうして、私たちがなんの不思議もなく営んでいる日常の生活、宇宙的にはこれこそまさに起こりえない奇蹟中の奇蹟と言ってよい。 

 


北アルプスの最高峰、大汝岳の山頂(3015メートル)。左の高峰は剣岳。

 

    北アルプスは、富山県、新潟県、岐阜県にまたがる山脈で、最高峰は海抜3015mの

  大汝山(おおなんじやま)で、この高峰を含む一帯は立山とも呼ばれ、それを含む富山県

  東部に延びている山なみが立山連峰と呼ばれている。

 


 

 

立山連峰の標高2500m以上の一帯には、

ハイマツの繁みが広がっている。ハイマツは、

五葉松の一種で、葉が5本、束になってついている。

 

 

標高が1500mふきんから、ダケカンバが現れ、山腹の斜面を被っている。雪の多い斜面では、雪圧で

幹が曲がり、ねじれた恰好をみせる。

 

 

 

立山の標高およそ1500m~2200mの間に

針葉樹林帯が発達している。主たる樹種は

コメツガ、オオシラビソなどであるが、トウヒ

も認められる。

 

 

 

スギは、低地から標高2000mふきんまで、

広範囲かつ大量に生育している。

中には、おそらく樹齢数百年という老大木もあり、

一種独特の風格を見せている。

 

 

イワウチワ

 

森の木陰にひっそりと咲くイワウチワ。イワウメ科の

植物だ。


                                   

           

幸せな臨終 

 

 

 臨死体験を経験した人の記憶によると、臨死状態で人はきわめて穏やかで幸せな心地になるとか。まるで光に満ちたのどかな花園を歩いてでもいるような、そのままそこに自分を投げ出したくなるような気持になるという。  

 

実際、脳波を計測してみると、ふつう人は心臓が停止しても脳波だけは、しばらく続けて

測できるという。この時点で人は、死に臨んで和やかな気分を経験しているのだろう。 

 

 すると死とは、その直前までは苦しいものかもしれないが、最後の瞬間、私たちは静かに

平和な気分で死を迎えられるのではないだろうか。 


新緑に彩られた ダケカンバの森 (北海道、十勝岳にて)

         

 

             人は余生期の長い動物だ  

 

 多くの動物の一生は、成長期と繁殖期の二つの段階に分けられる。成長期とは、生まれて餌を食べながら、体内では盛んに細胞が増殖し、さまざまな組織や器官が作られ、次第に体が大きくなり成体に近づいていく段階である。特に体の機能として、その動物が生殖可能に達する

までの段階を成長期という。それに対し、体内で成熟した精子や卵を、交尾という行動を通して合体させ受精卵を作り、じっさいに子供を作れる状態にある段階を繁殖期という。この二つを合わせたものが、動物の基本寿命である。  

 

 多くの野生動物は、成長期を経て繁殖期に達し、交尾をして子供を作ると動物としての役割を終わり、ここで一生を終える。ところが進化した哺乳動物の中には、その後なおしばらくは老いた状態で生きているものもあるが、この残りの段階を余生期と呼んでよいだろう。  

 

 進化の進んだ私たち人類はどうだろう。人類は、ほぼ十八歳前後で成長期を完了する。つまり成長期はほぼ二〇年といってよい。その後、子供を作れる期間、すなわち女性の出産可能な期間は四〇歳くらいまでだろう。すると繁殖期が二〇年余。合わせて四〇年程度が人類の基本寿命といってよい。  

 

 ところが人類の平均寿命は、世界的に見て八〇歳ほどである。日本人の場合、統計的に見て女性が八六歳、男性が八〇歳、男女平均すると八四歳となっている。すると人類は、四〇歳で基本寿命を終えたのち、さらに四〇年の余生期を持っていることになる。これほど余生期の長い動物は、人類以外にはないのではないだろうか。  

 

 人類が基本寿命の倍近くの余生期を持っているにはわけがある。まず、他の動物と違って人類は高度な文明を発達させた。その中には、医学や薬学も含まれており、人が傷ついたり病にかかった時には、それを治す薬や医療技術を使って直ちに対処できる。病の原因となっている病原菌を殺したり、栄養を補給したり、患部を治療したり炎症を抑えたり、状況に応じてさまざまな形で対処し病を治すことで、野生動物では死亡する状態でも人は生き延びることが出来るのであるこうして余命期が長く保たれる。  

 

 それに、人は愛情深い動物で、周りにいる人の苦しみを見逃せない。できるだけ苦痛を取り除いてあげようと努力する。そのことが、文明の発達とあいまって、人の余生期を長くさせている一つの重要な理由であろう。 

 

 いまひとつの理由は、人は年齢を重ねれば重ねるほど、さまざまなことを経験し知識が豊かになる。こうした知識は、基本寿命を過ぎても消え失せるどころか、生きていればさらに知識や経験を積み重ね、それに基づいて余生期には人生経験の比較的少ない若齢世代よりも、より広い視野で適切な判断が出来ることになる。  

 

 そのため余生期の人は、人生経験に基づいて社会にいろいろと貢献ができ、むしろこうした余生期の人々からの示唆やアドバイス等は社会にとってきわめて有用なところがある。つまり、余生期とは言えその段階の人々は、その立場から社会に少なからず貢献し、役にたっているのである。 さらに余生期の人々、ことに女性は、自分の経験から孫やひ孫たち、すなわち子孫の養育も巧みで、そのことによる社会への貢献も大きなものであろう。  

 

 こうして人類は、余生期であっても、いろいろと社会に少なからぬ貢献ができ社会からも期待されている。だからこそ、そのことが余生期の生き甲斐ともなり、人類は基本寿命をはるかに越えた長い余生期を生きることができるのだろう。それも人類の大きな特徴と言ってよい。

 


         

               私たちは歌劇「夕鶴」の〝与ひょう″か 

 

 

 歌劇「夕鶴」の中の与ひょうという男は、矢に射られて苦しんでいる鶴を、「なんの報いも求めないで矢を抜いて」あげる、もともと心やさしい純朴な男だった。そんな与ひょうのやさしさに惹かれて、矢を抜いてもらった鶴は、人間の女に姿を変え、与ひょうの家に入り込んで与ひょうと暮らすようになる。 

 

 

あるとき、つうと呼ばれるようになったその女は、与ひょうのために自分の翅を抜いて「千羽織」と呼ばれる美しい布を織ってあげたところ、与ひょうはその美しい布を見てすごく喜んでいた。 

 

 

 ところが、その与ひょうは、いつのまにか運ず、惣どという俗世界の金儲け人にそそのかされて金の魔力に取りつかれ、金儲けのために、つうに千羽織を織ることを強要するようになる。 

 

 

 

そんな与ひょうに愛想を尽かしたつうは、あるとき最後の「千羽織」を織って与ひょうに渡し、自分は再び鶴となって与ひょうの家を出、空へ舞い上がっていく。ところが、羽の大部分を抜いてしまったつうは、なめらかには飛べず、ふらつくように空へ飛び立っていった。

 

 

 

 それを見つけた近所の子供たちは、「つるだ、つるだ、つるが飛んでる」と騒ぎ立てる。聞きつけた与ひょうも空を見上げる。確かにそこには一羽の鶴が、だんだんと高く、そして遠くの方へと飛んでいくのが見えた。だがその飛び方は明らかに、ふらふらとよろめくような飛び方だった。

 

 

 

 与ひょうは思わず、「つうよー、つうよー」と叫ぶ。だがその飛び方を見て与ひょうは、「よたよたと飛んでいきよる」と、立ったままいつまでも悲しげに眼で追いかけていた。その最後のシーン、涙が止まらなかった。 

 

 

 

資本主義制度の社会に生きる私たちも、いつのまにか金の力に支配され、金儲けに明け暮れ、本来の純心なやさしい気持ちを失ってしまっているのではないだろうか。あの歌劇は、そんな人間の宿命を描いた象徴的な作品といってよいだろう。だからこそ、いまさらのごとくに、あの歌劇に惹きつけられるのだろう。

 


雄大なるカナディアン・ロッキーの自然


カナディアン・ロッキーに咲く花

 

ムシトリスミレ

 

森の中の開いた湿原に咲くムシトリスミレ。

葉の表面には粘液がついていて、虫が

止まると動けなくなり、やがて消化酵素が

出て虫を溶かし、養分を吸収する。虫に

とっては地獄だ。

 

ロッキーアサツキ

 

この植物もやや湿った草地に生えている。

ネギの仲間であるが、花が美しいピンク

色をしている。つまんでみると、ネギ特有の

匂いがする。

 

タカネカタクリ

 

ユリ科のカタクリの仲間であるが、日本の

カタクリがピンク色の花を咲かせるのに

比べて、このカタクリは花が黄色だ。それ

だけに良く目立つ。

 

タカネワスレナグサ

 

林縁のやや明るいところに点在するように

花を咲かせるタカネワスレナグサ。花壇

等に植えられている園芸品種のワスレナ

グサとそっくりだ。

 

シロバナシャクナゲ

 

日本の山にあるシャクナゲと同じ仲間で

あるが、全体に小作りなのと花が白い

ことで区別できる。森の中の暗い日陰に

生えていることが多い。



これは、厳冬のDiamond Head です。

Diamond Headは、Vancouverの北にあり、

海岸山脈(Coast Mountains)の一部をなすものです。